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何かありましたらどうぞ

1 名前:スナドリネコ:2006/09/27 17:33 ID:B/xPwuQ2D2
湯沢の話題などありましたら、書き込んでください。

167 名前:わっぱが:2007/07/08 01:11 ID:PMGQX5KPMc
 鈴木さんのHPでは、湯沢ナショナルのお父さんと同級生で相撲をとってた、とかいうエピソードもあったように思います。
 鈴木さんのHP愛読しています。
 湯沢人なら読もう。共産党支持者であっても朝日新聞読者であっても。エセ右やネットうよの人は怒りそうだから見ないほうがいいぞ。

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/2207/2004/shuchou0216.html

168 名前:杉の子堂:2007/07/08 17:34 ID:sH/RdB1dQ6
■鈴木さんのHP

 紹介状がありましたので、はじめてみました。
 でていますね校歌。
 「わかたけ、ゆざーわちゅうがっこう」
 が
 「わかたけ、ゆざーわみなみちゅうがっこう」
 ということで
 「みなみ」ちゃんが入るとかなり違う感じですね。
 今日はパワーなくROMモードです。

169 名前:杉の子堂:2007/07/09 04:59 ID:TTGFxMWWHc
■新国道物語F ひどい泥とデコボコ

 昭和42年ころの話ですが、新国道は幅15mから18mに拡幅改良工事
 が施工されようとしていました。
 ところが、またしても家屋移転が多くなかなか工事が進捗しませんでした。
 改良工事を行ったものの、砂利を敷いただけのデコボコ道で雨の日は、毎日のように
 泥を浴びる人が出たようです。
 「早く改良工事が出来ないときは、簡易舗装か防塵舗装くらいすべき」と
 市民から不満がでましたとさ。
 建設省湯沢工事事務所の弁
 「舗装までできるかどうかは、本予算が決まらないと…」

170 名前:杉の子堂:2007/07/09 05:09 ID:TTGFxMWWHc
■新国道物語・完 新新バイパス要望

 このように大難儀して完成した道路ではありましたが、昭和50年には
 平清水町内会から「一日も早くバイパス新設を」との陳情が市議会にあり
 採択されています。
 まあ、採択されれば国や県の関係機関に要望する訳ですが、あまり効果はないですね。
 とにかく、交通量の飛躍的な増加と深夜の騒音は沿線住民悩みのタネ。 

 

171 名前:杉の子堂:2007/07/09 05:20 ID:TTGFxMWWHc
■両神

 両神は、湯沢地区の「山ノ神」と倉内の「才ノ神」を圃場整備したので
 両神になったと記憶しております。
 昔の清水町は、ほとんど「字山ノ神」だった記憶があります。
 材木町は「字清水尻」、千石町は「字石名塚」、愛宕町は「字東松沢と西松沢」。
 
 

172 名前:杉の子堂:2007/07/10 08:10 ID:nAHbeL0QPU
■御屋敷線物語@

 昭和35年3月に湯沢総合計画が策定されましたが、「街路の追加及び変更」が
 計画の大きな柱になっていました。
 ここに、都市計画道路「御屋敷線」誕生の原点があります。
(この総合計画で策定された街路については、かなり実現しています。)

 次回は、すんなり実現しなかった御屋敷線について、住民側と市役所側
 の言い分を紹介します。

173 名前:杉の子堂:2007/07/10 08:23 ID:nAHbeL0QPU
■湯ノ原線番外編・大工町通学路に信号機が

 昭和50年6月15日広報ゆざわ第439号に出ていました。
 大工町通学路は、湯ノ原線が開通して交通量が激増し、横断する
 東小学校や北中学校の児童生徒が危険にさらされていた場所だった
 とのこと。
 (東小学校PTAの校外部のみなさんが、湯ノ原線大工町交差点の
  交通量を4日間調査したところ、30分で平均490台の自動車
  が通行することがわかったそうです。
  子どもの安全を願う、この熱意が公安委員会を動かしたと思います。)

174 名前:杉の子堂:2007/07/10 08:34 ID:nAHbeL0QPU
■街頭有線放送・場外編

 昭和50年に招集された市議会一般質問で、
 「街頭有線放送区間の拡大を望む声があるが…」と市議。
 当局の答弁は「何分、商店会の所管のことで…」

 商店会で設置したことをわかっていて質問する市議も市議。これは場外でしょう。
 ちなみに、市議会の議事録は永年保存のはずなので、見識ある発言に留意しましょう。
 おっと、俺も場外。

175 名前:杉の子堂:2007/07/11 08:43 ID:l5LgGsiamE
■御屋敷線物語A 市議会に反対の陳情が

 計画が具体性を持ち始めた昭和48年の6月市議会に道路建設に反対する
 2件の陳情がありました。
 ●金池住民36名
  @16m幅の道路は不要 A中央公園の遊園地としての目的が損なわれる
  B市民広場が道路建設によって危険 C事前説明がなく、地元の意見が反映
  されていない
 ●日本キリスト教団湯沢教会代表ほか700名
  交通混雑により幼児教育の環境と市民いこいの風致地区を破戒し、交通公害
  をまねく。即刻計画を中止してほしい。

  この陳情は議会のたびに継続審査となり、昭和50年の6月議会で新たに参入
  した反対陳情ともども、3件がまたしても継続審査になったとさ。
  ●秋田県教職員組合雄勝支部
   反対理由は、湯沢教会とほぼ同じ

  さて、この3件の陳情は昭和51年9月議会で姿を消します。
  採択、不採択、継続審査のいずれでもないので、たぶん取り下げ。
  最初に陳情してから3回も花見をしているんだから、すごいね。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

176 名前:スナドリネコ:2007/07/11 11:53 ID:..XlPPunLc
うちではテレビを買ったときに、東京オリンピックの円盤投げの置物みたいな物をもらいました。
しばらくはあったのですが、すでにがらくたとなって捨てられたかも知れません。

鈴木邦夫さんが誰なのか、今ひとつわかりません。

177 名前:杉の子堂:2007/07/12 21:02 ID:8fj/3yBNco
■新国道物語・追録 並木通りの話

 今月できたばかりの「雪国62号」が手元にありますが、雪国文学会の同人で
 ある柳沢昭三さん(仕出し弁当柳沢のご主人)の随想には、懐かしい湯沢の原風景
 が随所にでてくるので、毎回楽しみにしています。(今回はお休みのようです。)

 そんな柳沢さんが刊行した随想集の中で「ばあちゃんの春遠からじ」に「どうして
 並木通り!?」の話が出てきます。
 ちなみに、俗称「並木通り」は、国道13号駅通りから中央通りまでの区間で、もの
 すごく難儀して完成した路線です。

 氏によると、小さかった頃から、前森や大工町には朝鮮半島出身の人たちがたくさん生活
 していたそうですが、昭和35年に帰国事業で北朝鮮に戻ることになったそうです。
 湯沢の地を離れるにあたり、何か記念になるものを残して行きたいとのことで、この区間
 の両側に銀杏の苗木を植えたそうです。
 ところが、その年は大雪で、除排雪作業などが原因で折れてしまい、春には数本になって
 いたそうです。
 そこで、朝鮮総連秋田県南支部の協力で新たに30本植え替えたそうですが、これも
 やがて1本も残らず枯れてしまったそうです。

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

178 名前:杉の子堂:2007/07/13 05:50 ID:KvQkWfr8vI
■懐かしのTV番組・底抜け脱線ゲーム

 ロォート、ロォート、ロォート  ロォート、ロォート、ロォート
 ロォート製やくぅぅぅぅーーー。
 
 「底抜け脱線ゲェーム(パフパフ)、司会の金原二郎です。」で始まるこの番組は
 芸能人が底抜けチームと脱線チームの2組に別れて、ナンセンスなゲームに挑戦し
 勝敗を争うものでした。

 おバカゲームのネーミング&内容を紹介します。
 ●「突破ジージョ(トッポジージョ)」
  巨大なネズミ捕り器の中に入り果物をゲットして出てくる

 ●「足引つくリーグ(パシフィックリーグ)」
  野球のグローブと足をメの字型にゴムでつなぎボールをつかむ

 ●「ぶつかり携行(ぶつかり稽古)」
  大きなウレタンを抱えてぶつかりあう。倒れたり土俵から出ると負け

 ほかには、メガホンを逆に顔につけて、床にひもでつくった迷路をたどり
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

179 名前:わっぱが:2007/07/14 02:55 ID:/l8IjHbnaQ
 底抜け脱線ゲーム、よかったですね。
 「ロッテ歌のアルバム」「スター誕生」「ラブラブショー」「紅白・歌のベストテン」「カックラキン大放送」「たのきん全力投球」「てんぷく笑劇場」
 「ずばり当てまショー」
 やっぱ「クイズグランプリ」から「スター千一夜」の流れが最高でした。

180 名前:わっぱが:2007/07/14 03:25 ID:/l8IjHbnaQ
■杉の子堂さん、御屋敷線物語、実に面白かったです。番外編も期待です。
>昭和35年3月に湯沢総合計画が策定されましたが、

 昭和35年というと、まだ湯沢駅にも特急が来てないころかなあ。
 旧国道も、国道とはいえ、まだクルマより人の行き来があったころですね。
 電柱があちこちに飛び出てて、実際、トラックのすれ違いも大変だったと聞きます。

 北高から市役所にカーブして駅前にいたる道路は、しかし、あの道が出来る前の姿を知るものとしては、実に残酷な道路に見えますね。古くは淡路屋敷があった場所でもあり、本来ならば市民の憩いの場所になるべきところだったのになあ・・・
 前森公園のなぞの町内会館&展望台と同様に、歴史を無視するものには未来が無いような気がするです。

■湯ノ原線番外編・大工町通学路に信号機が
 大工町交差点って、爛漫から両関に行くとこの信号機ですかね。
 あそこは、湯の原の南側・金池・北荒町・柳町のワラシたちの通学路でしたから(北高の裏通りも併用)、確かに子どもらには重要な場所でしたね。
 買い食いや寄り道の誘惑が多いので、東小では旧国道ではなく、1本、東の通り(やまの店で合流)を通学路として指定していました。
 よって、あそこの信号はあって当然、なければ飛ばしてくるクルマの餌食になるワラシが多発したことでしょう。

181 名前:わっぱが:2007/07/14 03:25 ID:/l8IjHbnaQ
あ、板ちがいでした。

182 名前:わっぱが:2007/07/14 03:27 ID:/l8IjHbnaQ
>■御屋敷線物語A 市議会に反対の陳情が
 新幹線延伸運動同様、いったい誰が要望してたんでしょうね。(やっぱ土建やだろうなあ・・・・)

 反対の陳情は実に至極当然の内容でありますね。(S48)
>@16m幅の道路は不要
 そう思います。しかも力水を見にカーブに駐車したり、カーブで歩行者が横断したり、だいぶん事故もおきているようです。
 交通安全のための拡幅が、逆に事故の増加を生んだ典型例でしょう。

>A中央公園の遊園地としての目的が損なわれる
>B市民広場が道路建設によって危険
 そのとおりです。あの道路ができて、中央グランドとガッコやまを何度も往復するような遊び方ができなくなりました。
 子どもの意見・子どもの遊び空間を無視するような町に未来があるわけがありません。
 一方、クルマを極力カットした増田の真人公園や、横手公園は子どもが駆け回っても安心ですね。

>C事前説明がなく、地元の意見が反映されていない
 まあ、いつものことですね。市役所も属している町内なのに、説明会を十分にされてない、という批判がでること自体、恥ずかしいことだと思わねばなりません。まして金池といえば、400年前からの旧家が軒を連ねている場所ですしね。

183 名前:わっぱが:2007/07/14 03:27 ID:/l8IjHbnaQ
>●日本キリスト教団湯沢教会代表ほか700名
>交通混雑により幼児教育の環境と市民いこいの風致地区を破戒し、交通公害をまねく。

 意図的か変換ミスか「破壊」ではなく「破戒」ですな。
 古くより、力水の付近は、湯沢のこどもたち全員の場所であったはずです。湯沢小学校があり、プールがあり、キリスト幼稚園があり、東西に小学校が分かれる前の湯沢のワラシは、全員、ものごころがつく前から、あそこで自由自在に駆け回り、泥ダンゴをこねて、ゴムとびをし、力水を飲んで夢のような日々をすごしていた場所です。
 まさに、湯沢の旧市内人の意識を共通化するエルサレムのような場所だったところのど真ん中に不要な道路を通して、こどもの遊びを急速に収縮させた罪は少なくありません。
 古くからの馬だし小路である、旧由利館から前森公園やまの店までの道路は、30年あれば十分に拡幅できたはずです。
 あそこを安全を保持したまま両方通行にしていれば、今の力水のとこの道路は不要だったと思います。
 北高方面から、時計回りに一方通行の2斜線幅の市役所を回る道路があれば十分にことたりたと思いますし、さらに、由利館のところから「さべん」までを昔のように道路にして通すこともありえたと思います。

>この3件の陳情は昭和51年9月議会で姿を消します。
>採択、不採択、継続審査のいずれでもないので、たぶん取り下げ。

>ようやく、昭和54年の6月議会になり委員の任期切れで審議未了ですと。
>つまり、廃案ですな。実質的には「不採択」と同じ結果に。  だから、今の道路があるともいえる。
>こんだけ、引っ張った陳情の取り扱いほかにあるんだろうか。やれやれ。

 うーむ、改めて書かれると凶悪なことやってますなあ。>湯沢市
 重要な案件も、ウダウダやってるうちになし崩しに・・・というのは、病院立地や、今の合併高校とかの議論にも通底するのかも。怖いですねえ。

184 名前:杉の子堂:2007/07/15 18:59 ID:Lh6b.kLyj.
■杉の子堂からのお詫び

 店頭に並べる本の執筆を「スピーディー勝山」さんにお願いして
 いますが、遅筆で催促しても受け流されています。

185 名前:杉の子堂:2007/07/15 19:19 ID:Lh6b.kLyj.
■懐かしのTV番組・ズバリ当てましょう(秋田放送TV、日曜日午後0時15分)

 昭和41年8月28日(日)の放送分は、ワイドショーの司会者グループ
 4組を迎えてのゲスト大会でした。
 @「木島則夫モーニングショー」の井上加寿子さんと栗原玲児さん
 A「おはよう!にっぽん」の小野清子さんと友竹正則さん
 B「11PM」の藤本義一さんと安藤孝子さん
 C「小川宏ショー」の木元教子さんと露木茂さん
  のみなさんでした。なつかすー方々ですね。

 ●底抜け脱線ゲーム・追伸
  「ベルリンはどいつだ」ー30個の目覚まし時計の内3個だけ鳴らし、それを当てる。
  三波伸介は●●●、鳳啓助は●●○で、ポテチンの勝ち。
  そのほかには、熱いお湯の入った湯たんぽをモモの上に乗せて我慢できなくなったら
  次の人にバトンタッチするゲームなど。
 

186 名前:杉の子堂:2007/07/15 19:55 ID:Lh6b.kLyj.
■湯沢駅にも、いよいよ特急が

 ●昭和40年2月15日広報ゆざわ第149号
  「やまばと(特急)の湯沢駅停車周辺町村の協力を得て実現運動に乗り出す」
  ・10月に行われる秋のダイヤ改正で、上野ー山形間の特急「やまばと」の秋田
   延長が確実視されているので、運動に乗り出すとのこと。
  ・湯沢市、雄勝郡、十文字町、増田町と期成同盟会を設置していること。
  ・やまばとの延伸は秋鉄局が長距離列車の混雑緩和のため昨年から計画していたこと。
  ・秋まで及位ー院内間に新たな信号場が設置できるメドが立ったこと。
  ・湯沢駅の乗降客は1日平均で7,000人、そのうち130人くらいが準急以上の
   列車利用客であること。

 ●昭和40年10月15日広報ゆざわ第161号
  「特急の初停車を祝う」
  ・湯沢駅開業60周年、特急停車記念行事は10月1日午後1時30分
   湯沢駅1番ホームで、第2つばさ運転手への花束贈呈、市長のハサミ入れなどが、
   小中学生450人による鼓笛隊、ブラスバンドの演奏の中執り行われました。
  ・午後2時から家政学校ホール(さつき町に移転前)で記念祝賀会。
  ・市役所前広場で市内幼稚園児を対象にミニSLの試乗会。
  ・この日、特急に乗車したのは17人だったそうです。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

187 名前:わっぱが:2007/07/15 23:21 ID:i9SAsHT/Bo
昭和40年は湯沢の盛り上がりの開始期ですね。
・湯沢商業高校が杉沢にできる。
・中央デパート開業
・国鉄湯沢駅に特急がくる
・犬っこまつりが観光イベントになって盛り上がる
・七夕の絵どうろうもますます巨大化

 西馬音内線のチンチン電車や、羽後交通のボンネットバス(まだ車掌がいたはず)から、周囲20km以上から、歴史上例を見ないほど、わんさか湯沢の町に人が集まりはじめてくる時期ですね。

188 名前:杉の子堂:2007/07/16 14:13 ID:V4l5G62OiI
■七夕まつりと雄勝線

 羽後交通は、(昭和41年8月)6日、7日の両日、湯沢市の七夕まつり
 に雄勝線の臨時列車を運転する。
 《上りの臨時列車》
  梺発午後7時、西馬音内発午後8時45分
 《下りの臨時列車》
  湯沢発午後9時20分ー梺着午後9時58分
  湯沢発午後10時45分ー西馬音内着午後11時13分

 ●雄勝線の思い出
  中学生のとき、郡市陸上競技大会の応援で三輪のグラウンドに雄勝線を
  使って行きました。
  私は、応援に行ったのか、オランダせんべい食べに行ったのかよくわかりませんでしたが。
  左に緩いカーブを描いて電車が湯沢駅から離れていくんですよ。  

189 名前:杉の子堂:2007/07/16 22:02 ID:V4l5G62OiI
■住居表示@

 昭和49年1月1日、かねて準備を進めてきた住居表示がスタートしました。
 この結果、実施区域から「字」表示がなくなり、私なんか単純に住所だけ田舎
 モードから脱出したような気分でした。
 逆に、由緒ある地名の存続を願い未実施区域となった「内舘」「荒町」「新町」
 などは、依然と同様に頭に「字」がつきました。(今日現在も)
(湯沢地区は、他の地区と違い「大字」がなく「小字」表示だけです。)

190 名前:杉の子堂:2007/07/16 22:14 ID:V4l5G62OiI
■住居表示A

 湯沢地区町内会の区域は、字が基本となっていたので、街区方式に移行するに
 あたっては、さまざまな問題が発生したようです。
 しかし、街区方式に移行しても町内会の区域は従来のとおりとしたので、
 住所と町内会の関係が、ものすごく分かりづらいものになりました。
 逆に、由緒ある地名が町内会の名称として存続できたケースもあります。
 (「内廓町」「金池町」「根小屋町」など)

 私の推測ではありますが、町内会も街区に併せて再編成する計画であったら、
 おそらく反対論が多数を占め計画は頓挫したと思います。

191 名前:杉の子堂:2007/07/16 22:24 ID:V4l5G62OiI
■住居表示B

 ●昭和46年7月 住居表示整備審議会の設置
          (いわゆる有識者といわれる名士のみなさん)
          地区委員の選任
          (町内会の代表選手、会長ですね。)
 ●昭和46年9月 町内別説明会
          (午後7時頃からやったようです)
 ●昭和48年1月 実施時期を延期
          (ホントはやりたかったようですが、区割り案の
           変更や町名の存続を願う陳情が多く、議会の承認
           が得られなかったのが実情)
 ●昭和48年9月 新住居表示案を議会が承認

  そして、現在の住居表示の原型ができました。

192 名前:わっぱが:2007/07/17 02:38 ID:9hr7vzlwbI
>梺発午後7時
 おお、梺で午後7時とは、すごい遅いですね。もう真っ暗。
 湯沢に泊まり覚悟だったんでしょうか(笑)
 それでも、湯沢発最終10:45ですから、9時について1時間は遊べるかな。

 きっとその頃は舗装道路も少なく、よって街灯も殆どなかったろうから、電車から川べりのホタルとか、星空が見えてたかもしれませんね。
 ゴトゴトと、暗闇のなかをのんびり走っていく、チンチン電車。
 なんか、銀河鉄道の夜、みたいですね。

193 名前:わっぱが:2007/07/17 02:44 ID:9hr7vzlwbI
 住居表示は昭和49年だったですか。
 オイルショック、狂乱物価の頃ですね。田中角栄さんかな。

 湯沢でもやっとこさ、豊かさが実感される時期で、実際、これから5年ばかりは就職難で結果として「地方の時代」とか「脱サラ帰農」とか流行った頃ですね。
 「んだ、湯沢もそろそろ近代化さねまねんだ」という気運があって、住居表示変更が実現できたんでしょうか。
 (まっさきに、オヤガダ衆が反対しそうな話ですが)

 でも、ほんと、昭和40年代は、パックス・ユザワーナ時代というか、本当に黄金時代だったと思います。
 その終焉の一端が住居表示変更だったりしたら、ちょっと呪術的ですね。

 町内の名前は、うちの場合、親族の屋号のようになっています。
 電話に出るときも親族の場合、町内を言ったりします。(なんか落語家みたいね)
 ・・・てことは、昔は地元就職・地元結婚が多かったんだなあ、と気が付くのです。

 町内会は、ちょっとしたイベントだけでもいいから、残って欲しいもんすね。

194 名前:杉の子堂:2007/07/17 04:11 ID:/T/XZylcgA
■町内PTAの衰退

 かつて町内会と町内PTAの共催で運動会などをやっていました。
 児童公園などを利用した小規模運動会でしたが、終了後、大人は
 ビール、子どもはお母さんたちがつくった料理を食べました。
 共催といっても、実働部隊はPTAで町内会長さんは名誉職的な
 実行委員長といったところです。
 他の町内役員の人は、意味不明な「参与」とか。

 ところが、子どもの数が減り町内PTAはすっかり衰退してしまいました。
 総会=役員会ですもんね。
 ということで、町内会も活力なくなるという図式ですか。
 でも、平均年齢が高くても花見や芋の子汁、清掃活動などで頑張っている町内
 もあります。
 この温度差は愛飲家の比率が大きく影響しているものと考えられます。
 とにかく、交流酒飲み会がキーワードですから。

195 名前:杉の子堂:2007/07/17 04:37 ID:/T/XZylcgA
■「広報ゆざわ」新聞記事に激似

 昭和41年に湯沢の大町交差点に初めて信号機が設置されたときのこと

 ●秋田魁新報(昭和41年11月11日)
  「初の信号機 湯沢市の大町かどに」
  湯沢市の大町かどに湯沢署管内で初の交通信号機がとりつけられ十日から正式に
  運用をはじめた。
  大町かどは国道十三号線と湯沢駅通り線が交差するところで自動車の通行が多く
  朝晩のラッシュ時には歩行者が道路を横断するのに苦労していただけに、「こんど
  は安心して渡れる」と喜んでいる。

 ●広報ゆざわ(昭和41年12月15日)
  「大町かどに初の信号機」
  市内の大町かどに湯沢署管内では初めての「交通信号機」がとりつけられ、先月十日
  から運用をはじめました。
  大町かどは、みなさんもごぞんじのように国道13号線と駅通り線の交差するところ
  で自動車の通行が多く、とくに朝夕のラッシュ時には歩行者が道路を横断するのに苦労
  していましたが、この信号機の完成で歩行者も安心して横断できるようになったわけです。

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

196 名前:スナドリネコ:2007/07/17 10:50 ID:k4iAAHqz4w
明らかに、そっくりです。
昔は著作権とか、今ほどうるさくなかったですからね(笑)

197 名前:杉の子堂:2007/07/17 21:15 ID:/T/XZylcgA
■やっぱり

 これを偶然の一致と主張するのは、家のばあさんがカール・ルイス
 と競走して勝つことより難しいようです。
 ここまで、パクルとむしろ清清しい気もします。

198 名前:杉の子堂:2007/07/18 07:34 ID:0eE4TXkCNE
■「吉野や」で肉丼、「とん八」でホルモン

 かつて中央通りの北側に「吉野や」という食堂がありまして、そこで肉丼を
 食べました。(吉野家の牛丼じゃなくて)
 同じ北側の西に「天平」があって、天平の西に知る人ぞ知る、知らない人は
 知らないホルモン焼き「とん八」がありました。(ギャグも昭和でスミマセン)
 向かいの南側には移転する前の寿司屋「浜銀」がありました。
 とん八では、すべてのお客さんが「あんつぁ」と呼ばれていました。
 「あんつぁ、なんぼ(何人前)焼く」

199 名前:スナドリネコ:2007/07/18 09:03 ID:Slhr5CSu1w
浜銀は、昔は中央通りにあったのですか。
今の場所には、湯沢にいたときには良く行きました。
内装を改築してからは、殆ど行っていないんですよね。

200 名前:杉の子堂:2007/07/18 21:13 ID:0eE4TXkCNE
■特上を食べたのが最後

 まだ浜銀が中央通りにあった頃、最後に食べたのが特上でした。
 (貧乏な俺がどうしたんだろう?思い出せない。)
 結婚する前、妻に寿司屋のカウンターで好きなものを食べさせ、好きなものを
 食べていたら精算がとんでもない事態に。
 余裕の表情で払いましたが、しばらく立ち直れませんでした。
 (赤貧の青年時代に「今日は、ごちそう様」が重くのしかかった。)

201 名前:杉の子堂:2007/07/18 21:25 ID:0eE4TXkCNE
■預金ゼロの小切手帳盗み御用

 昔々、秋田市であったとさ。
 会社に忍び込み、机の中にあった小切手帳の2枚に印鑑を押して持ち出した男が
 金額を書き込み銀行で現金化しようとしたところ、残高がなかったため怪しまれ
 警察に突き出されたそうな。
 うーーん!間抜けなのか不運なのか。
 やっぱり、残高なかったら普通振り出さないので怪しまれるわな。                           

202 名前:わっぱが:2007/07/19 02:06 ID:JOQOo7zMwo
>■町内PTAの衰退

 なずがしんしな。>ちょうないかい

 町内にグランドがあったところは便利だったんしべね。
 家政学校(旧湯沢中学校)では、よく近隣の町内とか、宗教系の運動会やってました。

 とにかく、出れば、かっぱえびせんの10円袋、とか、鏡せんべいの小袋とかもらえるので、ワラシたちがよく出てました。
 (湯沢にもいろんな宗教の教会ありますけど、湯沢の場合、イベントやれば人が来るけど、肝心の教徒があつばらねくて大変みたいです。意外なほど寺の檀家意識&正月はしんめさんか愛宕さんにいかねどバジあだるべ。という家が多いようです)
 (でも、寺も神社も、けっこーお金かかるです。んだども「オッサン(坊様)」どが「ほいさま(神主)」に拝んでもらわねど御先祖さ悪りった気がするんし)

203 名前:わっぱが:2007/07/19 02:07 ID:JOQOo7zMwo
 確かに、町内会と子ども会の区別はねがったんしな。昭和40年代は、町内、振り返れば子どものいない家がなかったように思います。(3世代同居がデフォ。跡継ぎとか婿取りとか全然普通でしたし)
 柳町とか駅前、清水町、大町、田町なんかも、お店の裏とか、2階とかに住んでいる家が多かったので、商店街・飲み屋なのに意外にワラシがいたもんだんし。よく友達のどこさ遊びにいったもんだんしね。

>かつて町内会と町内PTAの共催で運動会などをやっていました。
>児童公園などを利用した小規模運動会でしたが、終了後、大人は
>ビール、子どもはお母さんたちがつくった料理を食べました。

 よく酒屋さんが現場まで酒いっぺたないで配達したもんだんし。
 ビニールでねくて、まだムシロの世界だったので、イグサの香りの上で、地球サイダー(懐かしー)ひとり1本あたるのが非常に嬉しかったです。(当時は、地球サイダーは湯沢のサイダーだったんですよね)

 町内には、こういうイベントが好きな親父さんらがいて、なんでかんで、細やかにダンドリ組んでました。
 今思うと、頭が下がる思いですね。子どもがいない年寄りのみ家も、町内会の行事だから、ワラシださンミャオノ買ってけれ、ということで頼まなくても寄付金だしてけだと聞いています。(なので、冬は玄関の雪かきぐれシけねばね)

204 名前:わっぱが:2007/07/19 02:08 ID:JOQOo7zMwo
>でも、平均年齢が高くても花見や芋の子汁、清掃活動などで頑張っている町内もあります。

 そうですね。なかなか大名行列の日には帰省できないんですけど、祭りの日に旧市内を散歩すると、まだ、あちこちの町内で、町内会館とか、みじばだのガレージとかで、焼肉しながら、冷酒っこ傾けている「町内会の埋み火」を目撃できますね。
 いろいろメンドくせごども多いんですけど、ここまで衰退してしまえば、うるさい年寄りも大人しくなっているので、もし湯沢に戻ることがあれば、積極的に町内会の飲み会・子ども会をシけたいと思います。

> この温度差は愛飲家の比率が大きく影響しているものと考えられます。
> とにかく、交流酒飲み会がキーワードですから。

 まさに。
 子どものイベントでも、紙でくるんだ一升瓶2本つなぎ、3本つなぎ、を持ってくる人多かったです。
 あまり酒飲まない家とか、ゴシュギどか進物でもらった一升瓶をここぞとばかり供出するので、タヤネ酒飲みにとっては激嬉しかったイベントだと思います。一升瓶から互いに茶碗こさ注ぎあって、水みんたにしてガハハと笑いながら飲んでました。
 とにかく、昭和50年以前の湯沢の地元イベントは、確実に、湯沢の酒消費量を伸ばしたと思います。
 まだ明るいうちから飲み始めて、裸電球つけて深夜まで飲んでましたから、1人1升くらい飲んでたかもしれません。
 あと、昔はそったに焼酎って飲まなかったですね。基本は「銀紋」+ガッコ+なしじげ+茶色くて指がべたつくさきいか。

205 名前:わっぱが:2007/07/19 02:33 ID:JOQOo7zMwo
>■「広報ゆざわ」新聞記事に激似
>昭和41年に湯沢の大町交差点に初めて信号機が設置されたときのこと

 おお、すごいっすね。つまりは、昭和41年11月までは、湯沢に「交通信号機」(昔はこういってた)ねがったんですね。
 
>大町かどは国道十三号線と湯沢駅通り線が交差するところで自動車の通行が多く

 ってごどは現旧国道がまだ現役の国道の頃ですね。あの角近くに「なかよし」があったんでねがったかな。
 とにかく、すごい数の羽後交通バスが、全てこの通りを通って、直進・右折してたんで、人とリアカーとクルマとバスが交じり合って、大変な混雑でした。特に日曜日はクルマの間に人が埋まってる感じでしたし。
 (大曲の月岡劇場の前なんかは、もう現在の渋谷センター街そのものでした。)

206 名前:わっぱが:2007/07/19 02:35 ID:JOQOo7zMwo
>昔は著作権とか、今ほどうるさくなかったですからね(笑)

 むかし、というか、レンタルレコード屋ができてパソコンが普及するまでは、著作権の概念自体が希薄でしたからね。
 コピー機も高かったし(なので普通はガリ板・青焼き)、カセットテープ60分も1本200円(現在の価値では2000円ぐらい)なので、聞かなくてもとりあえずダビング、ということが無かったです。

 今の新聞記事の著作権の運用からすれば、
・事実の羅列については適用なし
・ただし、語順や見出しについては、著作物性があると考える
・発言部分は著作物性がないが、別途、不法行為に抵触する(汗の評価=フリーライドの回避)
ということなので、
(1)見出しは変える → これはクリア
(2)事実関係は同じとしても、トラブル回避のため語順を変える →ここはあやしい
(3)不法行為に問われないため、「参考=(・・・)」などとし、営業上の配慮をする
 → 発言とかはないので特になし
・・・あたりかと思います。
--------------------------
「初めての信号機、大町かどに」
 湯沢市の大町かどに湯沢署管内では初の「交通信号機」が設置され、
十日から正式に運用されました。
 国道十三号線と湯沢駅通り線が交差する大町かどは、交通量が多く
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

207 名前:わっぱが:2007/07/19 03:08 ID:JOQOo7zMwo
>■「吉野や」で肉丼、「とん八」でホルモン

 中央通りは食い物やが多かったですね。
 1つには、中央デパートの魚館(?)があって、子どもづれでない人にとっては、大食堂は混むしちょっと客層に合わない、よって、なんでも食える食堂が歓迎されたんでねがな、と思います。今でも「おぎた」さんとか現役ですよね。中華そばから、うどん、ざるそば、カレー、カツどんなど何でもあります。(味も製法も昭和40年代のまま)

 「吉野や」さんて、2階もあるとこでしたっけ。サンというか、手すりが格子であって外が見えたりして。
 とにかく昔は親子丼や卵子丼がお気に入りでした。湯沢衆は肉が嫌いな人も多く、見てると、カツどんは1割、親子丼3割、玉子丼4割、麺類2割ぐらい、だったと思います。(値段と腹持ちでベストバランスか)(うどんて腹減るのよね)
 あんかけカレーがかかった、カレー丼という不思議な丼もあったような・・・・

 「天平」は憧れでしたね。今も昔もあげたての天ぷらの魅力に勝てる人は少ないです。塩つけて、あれで酒っこ飲んだらなんぼがウメがったでしょうか。それが適う前に無くなった様に思います。あとは、大丈裏・高久さんのとなりの「すてーきのさいとう」ですかね。当時は「ビフテキ」とか言ってました(憧れ=なんせナイフ使うんですよ)。牛肉は高かったです。

208 名前:わっぱが:2007/07/19 03:08 ID:JOQOo7zMwo
>ホルモン焼き「とん八」がありました。

 ホルモン焼きは、あのにおいが堪らないですね。小野崎医院の隣のお風呂やさんに通ってたころは、向かいがホルモン屋さんで風呂から出るたびに「ああ、オトナになったら風呂上りにここ通うぞ」と心に決めてましたが、これも無くなってしまいました。
 早い時間だと、墓場の角にあった照井の焼き鳥やさんで、鳥皮を1本(\10)買って食べながら帰ってました。(しかし墓場の前で焼き鳥というのもいいのかな?)(ここも今はやってないですね)

>向かいの南側には移転する前の寿司屋「浜銀」がありました。

 浜銀は入りやすいお店でした。
 新国道越えたすし屋さんは本格的なおすし屋さんでした(「一力(いちりき)」さん?)。
 今も山田一平酒屋さんの隣の松井寿司やさんが、キレイで新しいお店でがんばってますね。
 あと、秋田木工の工場(今はパチンコ)のとなりの飲み屋小路の「河童の川太郎」さんですかね。

 そう思うと、意外とすし屋さんて行ってましたね。貧乏だったけど(だから?)なんか良いことがあったり親族が来たりしたら、奮発してすし屋に行ったもんでしょう。(中央デパートは遅い時間やってないし、長時間、クダまけないしね)
 そんで、女子どもは先に家に帰って花火やってスイカ食って、オヤジどもはホルモン焼きやさんなどをハシゴするのでありました。

209 名前:わっぱが:2007/07/19 03:09 ID:JOQOo7zMwo
 浜銀の隣には甘味どころの喫茶部があったように思います。(中央デパート開店後の話。昭和49年前後)
 お汁粉、あんみつ、お団子などがメニューでした。推測するに、明らかに放課後の北高生狙いだったと思います。
 あの頃は、中央通りだけでも、喫茶店風やお菓子やが激増した時代でもありました。
 北高から、山田眼科、柳町交差点、小林スポーツまでの間に、ケーキや2軒(リスボン、モンドウル)、和菓子や3軒(わかさや、みやぎや、あと忘れた)、甘味どころ2軒、喫茶店3軒、駄菓子や、・・・きっとあの頃の北校生って、今の渋谷の高校生なみに、放課後のよりみちの楽しみがあったのだと思います。

 今も黒まる食堂をはじめ、赤いポスト、ちゃっぷりん、ラッシュライフなど喫茶店が残ってますが、あの湯沢の黄金時代の喫茶店・甘味どころの充実振りはすごかったと思います。どの家もそんなに裕福でなかったけど、一所懸命カシェで、娘を北高さへで、あのベレー帽かぶって写真とるのが夢だったんです。(南高には、今ほど女子は入ってなかったので)
 商業は遠ぎがったですし、昭和40年代は杉沢はお店は皆無でしたから、ちょっとでも遊びたい女子は北高志望でベレー帽でした。あとスキー部とバスケは自動的に北高でした。よく家政学校で野球してると、坊主あたまで山谷までランニングしていく北高のおねえさまがたを見かけたものです。実に熱血スポ根な時代でありました。(顧問は入江大先生)
 南高はジャンプ台ですかね。湯沢スキークラブ。商業の学生も飛びに着てたとおもいました。

210 名前:スナドリネコ:2007/07/19 09:52 ID:mif0dn7/x6
私が湯沢のお店に行くようになったのは、大人になってから、特に東京から帰ってきてから
なので、高校生の頃までは中央デパートとショッピングデパート周辺しか行きませんでした。
あの辺で買い物して、柳町からバスに乗り、中央通りには全くといって良いほど行きませんでしたね。
喫茶店はカトレアとかレアだったかな?
その頃は、他には行った記憶がありません。

211 名前:杉の子堂:2007/07/19 20:04 ID:sbpr6gSh4o
■柳町のバス停といえば

 おおー、柳町のバス停といえば「高安商店」さんの前ですか。
 このお店は、昔から営業していますから当時も同じかと。
「カトレア」は栗駒会館と同じSさんの経営ですね。
 私の頃は、高校生が喫茶店に出入りしたら、もう不良扱いでしたね。

 >浜銀の隣には甘味どころの喫茶部があったように思います。
 嫁さんは、高校生の頃、そこで「あんみつ姫」状態だったと申しております。
 たぶん、それがいけなかったのでしょう。

212 名前:杉の子堂:2007/07/19 20:25 ID:sbpr6gSh4o
■御先祖さま

 生ある者を導く仏教に、祖霊を尊び祭る風習が取り入れられたのは、日本人
 として、ごく自然なことのように思えます。
 ところで、いつになく墓掃除に行くと、墓地の花立てに枯れ果てたドライ
 フラワーが、そのまま放置されているのが目に付きます。
 (黄砂もすごいときありますが。)
 
 かえってさみしいですね。何かお墓が痩せてみえますね。
 地元在住の無精者は別として、生活の基盤が湯沢にない人は、本堂にお参り
 して帰るとき、持ち帰ったほうがよいかもしれません。
 なんか、実行しにくい話ですが。いつも、そう思います。 

213 名前:杉の子堂:2007/07/19 20:34 ID:sbpr6gSh4o
■現場配達王は外前森の斉為酒店さんだった。

 斉為さんに頼めば、現地まで酒を配達してくれたし、ケース入りのグラスも
 貸し出してくれました。
 今は、その種のイベントが激減したと思いますが、昭和の配達王だったと思います。
 お店の電話番号は、「酒は斉為2292」で今でも覚えています。

 ところで、最近は木村酒造の本醸造生貯蔵酒「秋田杜氏」にハマッています。

214 名前:杉の子堂:2007/07/19 20:56 ID:sbpr6gSh4o
■「ビフテキ」をテーマにモノマネ初挑戦

 地方から消えた〜美しい国笑い
 ビフテキ取り立て破壊生活どうかな弱者階級はカンコひろってホント?
 いかがですか〜 酒っこ一杯 よしやるか〜 
 著作権? ??…

 秋田杜氏で悪乗りしてしまいました。スミマセン。木村酒造さんゴメンナサイ。

 ビフテキを食べるのは、庶民のあこがれでありました。
 思えば、早くそういう身分になりたくて頑張ったのでした。

215 名前:スナドリネコ:2007/07/20 11:27 ID:Xet0Av7ZME
昔は、ごちそうと言えばすぐに連想されるのが、寿司とビフテキでした(笑)
子供の頃は食べたことが無くて、あこがれでしたね。
自分でお金を稼ぐようになってから、やっと食べることができました。

木村酒造のお酒は、地元よりも東京で評価が高いようですね。
元々は、大阪の陣で有名な木村重成の子孫だそうですが、今はナショナルだそうで、
ちょっと寂しいです。

216 名前:杉の子堂:2007/07/20 18:08 ID:usH0JmdBE.
■木村酒造の番頭さん

 ナショナル物産の経営になる前の福小町には、Kさんという古くからの
 番頭さんがいました。昔は、あちこちのお店に番頭さんがいたものです。
 元々は「福娘」だったのですが、上方の「冨久娘」と商標で争い、結果
 「福小町」に改めたと、何かの本で読んだけど忘れてしまいました。
 記憶の力が低下していて、思い出すのに一苦労です。

217 名前:杉の子堂:2007/07/20 18:29 ID:usH0JmdBE.
■大名行列に南新町初参加

 昭和29年の大名行列は、旧暦7月23、24日にあたる8月21、22日
 の両日、南新町が初めて格番町として古式にのって執り行いました。
 南新町が格番町として参加していたことは、子ども心に覚えています。
 (南新町の同級生が行列に出ていたから)
 いつ、南新町が戦線を離脱して、本来の外町5町に戻ったか不詳です。
 (昭和30年代のうちだったような)
 南新町は、湯沢駅が出来るまで百姓町だったので、新外町として参加しようとの
 地元の熱意があったのか、参加を要請されたものか?

 行列に参加すると、沿道のお店から「鉛筆」や「ノート」を抱えきれないほど
 貰うので、プレゼントを運ぶ家族が同伴することがお約束でした。
 (あと、団扇で扇ぐことと、ポータブルの腰掛)
 家には、知り合いや親戚からサイダーが届けられたりもしました。
 これらの品々には、赤のしを付けますが「進上」と書くのが慣わしでした。
 (これも、風化しつつあるでしょう。)
 

218 名前:わっぱが:2007/07/21 15:59 ID:ECJBHGNDmE
>高校生の頃までは中央デパートとショッピングデパート周辺しか行きませんでした。

 実際、むかしだったら、そこを1日に往復しえれば、同級生にもあうし、お金なくても楽しいし、そこで待ち合わせして自転車であちこちに遊びにいったり、と、「市民みんなの待ち合わせ場所」「ひまつぶしの場所」でしたね.
 川井書店とかも、参考書の売り上げがすごかったとおもいます.
 それに、この距離ならば、中央デパートから文具のとみやまでは、ほぼ1つのショッピングモールみたいなもんでしたし.
 なので、強烈な集客力があるお店が2,3個あれば、町の賑わいは違ってくると思います.

 私が商工会長ならば、ユニクロとしまむらを、大丈ビルに、無料で入居させます.
 1階=食品館、2階=しまむら/ユニクロ、4階=ダイソー&サイゼリア、屋上=プリクラ&ビアガーデン

219 名前:わっぱが:2007/07/21 16:03 ID:ECJBHGNDmE
>あの辺で買い物して、柳町からバスに乗り、
>中央通りには全くといって良いほど行きませんでしたね。

 中央通りは地場の人が多かったかもです.
 柳町はバスで降りた人、駅前通は西馬音内線の人、大町田町は行商の人.あたりですね.
 どちらかというと、中央どうりは夜も明るくて、飲み屋の含有率が高かったからだと思います.
 なお、田町もそうですね.飲み屋さん.

220 名前:わっぱが:2007/07/21 16:05 ID:ECJBHGNDmE
 「カトレア」と「はまぎん」わかる方がいてうれしいです.
 しかも当時、現役の学生さんだとは.

 学生さんも入っていいお店には、戸口に「カエルマーク」が貼られていたのは知ってましたか.

221 名前:わっぱが:2007/07/21 16:10 ID:ECJBHGNDmE
 みゃもりは広れんしがら.酒屋(さがや)さんもやんべあったんしな.
 花見時期には、そのような酒屋さんが出店を出していたと思います.
 酒屋ちょっけつなので、足りなくなればすぐに補充、お値段もリーズナブルだったと思います(なにせ、店から持ってきているのがバレバレですから、プレミアつけれない)

 今も、犬っこまつりだと、肉屋さんが鶏クシとかステーキ串とか出しますよね.

222 名前:わっぱが:2007/07/21 16:18 ID:ECJBHGNDmE
 福小町=木村酒造さん、創業1615年の大老舗ですね.
 ご先祖は、大阪夏の陣で豊臣秀頼の忠臣/木村重成の縁者とか(無明舎の酒の本から)
 それで、大阪から湯沢に逃れてきたらしいです.

 1722年には、蔵元自身がはるばる関西に旅して伊丹で技術の研鑽につとめ、1755年には杜氏を伊丹から招いて技術指導を受けた.
 また、1820年には、山形大山より杜氏を招いているなど、つどつどに技術研鑽に勤めているようです.
 蔵元が杜氏を行う珍しいぱたーんだそうで.

 以上、無明舎「秋田の酒蔵 −全体験ほろよいガイド(河本祐一)」からでした.

223 名前:わっぱが:2007/07/21 16:25 ID:ECJBHGNDmE
>南新町が初めて格番町として古式にのって執り行いました。

 そうなんですか.
 格番の負担は相当のものですから、5年に1回が、6年ぶりになるだけでも負担感の軽減は大きいのだと思います.
 今であれば、駅裏の住宅街あたりに格番をやらせたほうが、ワラシのあつばりがよくていいと思います.
 (もう、柳町にはワラシほとんどいませんから)

 小林スポーツから、解体されたマルトヨあたりまでは、今でも古い家が続いていますね.
 ざっと思い出しても、昭和30年以前からある家ばかりかと思います.
 途中には家人がいなくなった廃屋もあります.

 あそこを拡幅して明るいイメージにかえれば、場所は湯沢インターから湯沢駅を結ぶ道なのでポテンシャルがあると思います.
 あそこの途中のヤキトリやさんはよく行きます.

224 名前:杉の子堂:2007/07/22 15:44 ID:ECX.d6PaZ6
■もしかして

 >小林スポーツから、解体されたマルトヨあたりまでは、今でも古い家が続いていますね

 南新町が1本北側の通り(平清水新町ー清水町)になっているようですが。
 それとも、南新町とは、別口ですか。

 清水町のミートイトウの焼き鳥は、私も買います。
 (伊藤さんがやっている材木町の湯沢プラザ敷地の簡易店舗のほうが近いけど)

225 名前:杉の子堂:2007/07/22 15:58 ID:ECX.d6PaZ6
■製材所@ 材木町

 かつて湯沢は製材所の街でした。
 とりわけ「材木町」には、製材所が集中していたのです。
 甲州屋製材所(創業者が山梨の出身)、花立製材所、拡大製材所(旧ジャスコ)、大野製材所
 (現・薬王堂)、丸吉製材所(現・羽後交通営業所)、芳賀製材所(ロイヤルホテル南側)
 思い出すだけで、これくらいあります。
 「キーィィィーーン、キン」大型電動モーターを動力に電気ノコギリがウナリを上げ
 慣れていても、うるさかったですね。

226 名前:杉の子堂:2007/07/22 16:05 ID:ECX.d6PaZ6
■製材所A 子どもの遊び場

 丸太を積み上げていた土場(どば)は、ガキの格好の遊び場でした。
 製材所の人にみつかると、「コラァァーーア」と追いかけられて、
 蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、それでも懲りずにまた戻ってきます。
 
 危険だと叱ってくれたのに、いつも仕事の邪魔をしてごめんなさい。

227 名前:杉の子堂:2007/07/22 16:15 ID:ECX.d6PaZ6
■製材所B 運の尽き

 あるとき、丸太の上から思い切りジャンプして着地したらウン●を踏んでしまい
 ました。(どこの犬だ、こんなところに…人?)
 当時は、裸足にゴム製の短靴を履いていたので、足がウン●まみれ。
 光速で逃げ帰り、石けんで洗えど洗えど臭気が。
 (今は大丈夫です。)
 製材所のおじさんに首根っこ捕まえられるよりツライ思い出でした。
 
 

228 名前:杉の子堂:2007/07/22 16:24 ID:ECX.d6PaZ6
■製材所C完 オガクズ

 親戚の家ではオガクズストーブを使っていて、ものすごく暖かったことを覚えています。
 製材所からオガクズを運んで手間賃をもらっている人もいました。
 
 昭和38年12月15日の広報にゴミ焼却炉が雄物川沿いのし尿処理施設内に新たに
 完成した記事がありますが、市内製材業者の寄付金50万円でオガクズ用の炉を設置
 したとあります。ストーブ程度の消費じゃ追いつかなかったんですね。

 しかし、時代の波は、これら大小の製材所を自然淘汰し、昔日の面影は今いずこ。

229 名前:スナドリネコ:2007/07/23 11:55 ID:PdqafJY.iM
昔は、おがくずを固めて薪のようにした燃料というのもありましたね。
今もあるのでしょうか。
今なら、結構需要がありそうな気がします。

230 名前:杉の子堂:2007/07/23 15:11 ID:hV.9U.CM6.
■オガライト

 「オガライト」名前だけは聞いたことがあります。
 ちょっと検索したら経済産業省の「石油代替燃料」のリストに載っているですと。
 「21世紀オガクズの復権」でしょうか。

231 名前:杉の子堂:2007/07/23 19:30 ID:hV.9U.CM6.
■「盗難お見舞い」は初めて

 昭和42年3月26日の秋田魁新報広告欄に「盗難お見舞いお礼申しあげます」
 が出ていてビックリ。(「近火お見舞いお礼」はよくみるけど)

 「24日、当店において時計・指輪・ネックレスなど大量の盗難にさいし、
  皆様方よりお見舞いとはげましの言葉をいただき略儀ながら紙上をもって
  お礼申し上げます」というもの。

 広告主は、湯沢市駅通り 滑川時計店さんでした。(JAこまち湯沢中央支店の西隣)
 そういえば、かすかではありますが、事件の記憶があります。
 盗んだ貴金属の闇のルートとかあるのでしょうか。

232 名前:わっぱが:2007/07/24 04:23 ID:otMloH0qXU
 住居表示:

表町一丁目  南新町の一部、平清水新町の一部、清水尻の一部
表町二丁目  南新町の一部、平清水新町の一部、清水尻の一部、小豆田の一部

 おお、表町って、昔からあったように思うけど、実は新しかったんですね。
 南新町と平清水は昔から「わがじぇまち」ですね。

 おがくず捨て場では、よくカブトムシ掘ってました。
 家政学校の裏とかにもおがくず置き場あって、よく彫りにいってました。
 

233 名前:わっぱが:2007/07/24 04:42 ID:otMloH0qXU
 シナガワレンタン、オガライト、マメタンは耳になじんでますね。
 石炭は火が付きにくくて、それこそ石炭ストーブしか使い道なかったけど、練炭・おがらいと・マメタンはいろいろ使えましたね。
 オガ炭ってあったんですね。というか、オガ炭のことオガライトだと思ってました。

 で、旧湯沢市内の場合、生木(薪)が安かったので、やっぱモクモクけぶ立てて薪で風呂たいていました。
 アンカとコタツはマメタンでしたね。魚焼きは昔は炭、わりと早めに電機になったかも。

 いま、HDDレコーダーで「時をかける少女」見てます。
 アニメだけど(すまんす)面白い。筒井さんがほめたのもわかる。
 リメイクでも続編でもないところがいいかも。(結果として続編だが)
 ちゃんと少年ドラマシリーズしてる。

 このスタッフで、「赤い月」とか「謎の転校生」やってほしいある。

234 名前:杉の子堂:2007/07/25 00:54 ID:U6Cjh0Bex2
■杉の子二等兵ただいま帰りました

 杉の子二等兵ただいま冷酒パーティーから帰りました。ベロベロ。
 わっぱがさん、若干修正させていただきます。 

 表町一丁目  南新町の一部、平清水新町の一部、野口町の一部
 表町二丁目  南新町の一部、平清水新町の一部、野口町の一部

 町内名と地名が入り乱れホント分かりづらいです。
 南新町は、旧サンエーから湯沢駅までの駅通り南北両側の町内会で、
 国道13号の東側が南新町第一町内、西側が南新町第二町内です。
 昔流で言えば、上新地のことですね。
 同じ新地同士でも下新地の南にあるから南新町、東京に近いから上新地。
 
 下新地=平清水新町は、中央通り大堰の西側から清水町の踏み切りまで。
 東側から平清水新町第一、第二、第三、第四。
 ホント、それがどうしたという感じでスミマセン。

 自宅は鉄砲風呂、母親の実家は五右衛門風呂でいずれも薪でした。
 五右衛門風呂背中つけたら熱いーーーー!
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

235 名前:スナドリネコ:2007/07/26 11:25 ID:3itkbYD4ug
冷酒パーティーですか、湯沢周辺にいるときには券をもらったり、付き合いで
買わされたりして行きましたね。

昔、西小の付近の国道沿いに、五右衛門風呂の残骸がありませんでしたか。
車で通る度に、捨ててある物なのか気になっていました。

236 名前:元杉の子堂:2007/07/31 19:28 ID:7vqvnoL7nw
■大家さまへ

 3月ほどお世話になりながら、お礼のあいさつもそこそこに閉店し、大変失礼いたしました。
 今後は、湯沢市掲示板に退職したOBとして歳相応の自覚を持ち「目立ち杉」ないことをを念頭に
火縄銃より散発的に投稿しますので、御容赦ください。
 五右衛門風呂の残骸については、残念ながら記憶にありません。
 ちなみに、冷酒パーティーは毎回のように節度を弁えないため、撃沈しています。
 あげくの酩酊投稿を深く反省しています。免許取り消しでしょうかね。
 

237 名前:わっぱが:2007/08/01 02:15 ID:8/6XMUUX1g
■杉の子堂さん
 どうぞ、お気軽に、任意で開店してくださいませ。
 夏は、暑くて眠れぬ夜もあるので、昔の記憶が思い出しやすいですよね。

 ひねるタイプの裸電球(あんず球みたいな親子電球付き)に、緑色の蚊帳、みんじゃには粘着式のハイ取りリボンに、お皿にかぶせる網みたいなの、それに皿に入れてた殺虫菊とか。
 側溝からの消毒の香りなど、とにかく、夏はさまざまな香りのオーケストラみたいな感じでした。
 フシギと嫌な匂いではなかったですね。

 風鈴の音、遠くの花火の音、深夜の町に響く貨物列車の出発の汽笛と連結器のガチャーンという音
 窓を見れば、街灯の明かりも少ないので星がたくさん見えました。

238 名前:元杉の子堂:2007/08/02 22:46 ID:dh1nV1q5D6
■今日も酩酊・湯沢中OB

 今日は生ビールでした。どんだけー!このため、冷酒より軽度です。
 湯沢市掲示板をみていたら、せいろくさんの書き込みありましたね。
 ちょっと気になったので一言。やはり知ったかぶり病気です。助けてー!

 湯沢中学校は、東小通学区の生徒が北中に分離されてからも、西小通学区の
 生徒だけで、そのまま存続していました。
 (昭和27年生まれは、1年間だけ同じ校舎に東・西相乗りしているはず)
 昭和43年4月に三関中学校と名目統合し、その歴史に幕を降ろしています。
 湯沢中学校が誕生したのは、昭和22年のことで「学校教育法」が施行され、
 6・3・3・4制に移行したためです。
 意外と歴史短い。
 だから、新制中学は弁天中であろうが岩崎中であろうが昭和22年生まれの
 同い年なんですよ。
 湯沢雄勝校長会が作成した「湯沢雄勝教育百年史」は参考になるでしょう。
 やっぱり、グッタリしてきました。さいなら。

 省エネ型1ワット豆電球を付けたら、まったく役に立たなかった。(悲)

 

239 名前:わっぱが:2007/08/03 03:02 ID:C/B48MlUS2
 なるほど。
 北中=湯沢中(東小学区)+弁天中+幡野中+岩崎中
 南中=湯沢中(西小学区)
   →(s43)湯沢中(西小学区)+三関中
ですね。

 また、全ての中学校は新生であれば、昭和22年=1947年=今年で60周年ちうことですわな。
 卒業時は15歳なので、現在、75歳の人が第1期卒業生ですね。

240 名前:元杉の子堂:2007/08/03 08:10 ID:cgpBFDOtp.
■呉越同舟

 昭和40年ころの湯沢中学校は9クラスありました。
 東組5クラス、西組4クラスですね。
 同じ動物園でしたが、あえて同じ檻には入れなかったようです。

 小学校時代に老朽校舎でお互いにいがみ合っていた歴史があるからね。
 
 「東(西)の学校、ボロ学校、行っってみればクソだらけ!」ってね。
 また余計なことを書いてしまいました。(生活習慣病で要医療)

241 名前:スナドリネコ:2007/08/05 11:19 ID:e0ueGu0wrY
閉店だったのですか、てっきり仕事の方が忙しくてと思っておりました。
そんなに連発してネタが続くと言うのも難しいでしょうから、散発的でも投稿ください。
市の掲示板は、今後一般の人が投稿しやすい様になって欲しいですね。

242 名前:杉元:2007/08/05 17:24 ID:nQh/qIMJFg
■研究の日々

 ネタは、まず切れないですね。秋田魁新報ネタはまだ昭和42年段階で
今年のうちには、43年に移行できそうもありません。
 TV番組ひとつでも、相当引っ張れると思います。
 「広報ゆざわ」も重要な情報源で、各号の見出しを作成中です。
 見出しができたら、テーマ別に分類しようと思っています。
 「箱モノ編」とかね。
  「元杉の子堂」改め「杉元」にします。(我ながら馬鹿っぽい)
 

243 名前:杉元:2007/08/05 17:31 ID:nQh/qIMJFg
■開票作業

 御両所とも、開票を取り上げていましたね。
 そもそも、開票作業に従事する市職員は、ほとんどが投票事務にも従事して
 いるはずです。午前7時に投票開始ですから、早朝から起きだして深夜に及ぶ
 開票作業、もう早く終了させて帰宅したい想いはいかばかりでしょう。
 いくら時間がかかっても、次の日(その日ということも)は平常勤務のようです。
 もう、必死でしょう。

244 名前:わっぱが:2007/08/06 01:13 ID:3b.d/sxa9o
●杉元さん、おばんなんし
 まんずこっちはアラシも暴風もなく静かなものですので、
ゆっくりまいりましょう

 湯沢黄金時代である昭和40年前後は、実に興味深い時代ですよね
 特に、インフラがまだ出来上がっていない時代のことは既に自分でも記憶の向こう側に消えてしまっているので(アルツハイマーかな)、魁や広報の情報があると、糸口になって思い出される嬉しいです

245 名前:わっぱが:2007/08/06 01:23 ID:3b.d/sxa9o
●東小はウンコ色、西小はドンベ色
 前森公園の山の上にある東小はクリームがかった黄土色、西小は浅黄っぽい緑色ということで、別系統の色です
 というわけで、前森公園でよく行われた市内小学校対抗相撲大会とかでは、「ひっがししょーは、ウンコ色ー」という、小学生らしいほほえましい野次が西小のみなさんからよく飛びました
 それに対抗して、東小側は、当時流行した「水色は涙色」という唄のフシに合わせて、「にししょうはー、ドンベ色、それはホントなのー」とか歌ってました(アホですね)

 ちなみに当時は下水道なんか概念もなかったので、ほとんどのドンベはアオミドロとかで、緑色に染まってました

246 名前:わっぱが:2007/08/06 01:47 ID:3b.d/sxa9o
 謎が多かった新国道については、だいぶん杉元さんのおかげで
わかってきました.
 あとは、昭和38-40年前後に改革のあった「犬っこまつり」の経緯とか、
(インナーなお祭り+犬っこ市ぐらいだったのが、対外的な「犬っこ/お堂っこまつり」に転化した経緯など)
 当時はまだあそこに小学校があったので、グランドに全部あつめるというのも難しいはずで、各町内の広場に作っていたと思います

 あと、絵どうろうまつりが巨大化したのは、中央デパートができてから、と聞いています.(ということであれば、昭和40年以降)
 とすれば、昭和30年代以前の湯沢の七夕はどんなものだったのか、これも興味あるところですね

247 名前:わっぱが:2007/08/06 01:48 ID:3b.d/sxa9o
昔の絵どうろうはどんな大きさだったのか、電気がない時代には、やはりろうそくだったのか、笹飾りは3色を短冊にする形だったのか(これは京都風なんだそうです)
 いろいろ疑問がありますね

 大名行列は昔の写真が残っていますが、あまり風景として変わってない感じでした
 昭和初期のころから、子供が主体の構成だったようです

248 名前:わっぱが:2007/08/06 01:48 ID:3b.d/sxa9o
 それにしても江戸期の道具が散逸せずに残っているのは奇跡的ですね
 その奇跡の程度が、地元の方が気が付いてないのも面白い現象です.気が付いてないが故に残ったのかもしれませんね.
 (全国各地の大名行列は、マジな大名だったが故に、道具類は殆ど借金のカタに売り飛ばされて、もとのものを使っている例は殆どありません.
 湯沢の大名行列は、大名でない佐竹南家が、愛宕神社の例大祭のアトラクションとして、佐竹家どころか士族でない町衆に大名のマネゴトをさせて、自分が観覧する、という不思議な風習が今に続いているものです
 江戸時代からあったようで、本職の武士とのイザコザは絶えなかったようですが、逆にこの期間は大名行列の格番(町)の方が士族よりも格上になる、という特例があり、ケンカしたら士族(といっても御囲地町とかの徒歩衆ですが)の方が注意された、という話が残っています

 佐竹南家宗家は、家の前に御座所を作って、御神体を直座して待って拝んでた、といいますから、殿様が地べたに座って、町衆からなるパレードを迎える、という実に不思議なお祭りですね.本当にそんなことでいいんでしょうか(笑)
 しかも、南家、東京移転にあたっては、このお祭りだけは、各町内で工夫して残して言って欲しい、という文書まで残していますので、えらい力の入れようですね
 南家が、いかに愛宕神社への寄与が強かったかがしのばれるエピソードです
 まあ、お家の年俸が1/3に切り下げられた財政の大破綻を、偶然の院内銀山の隆盛でもりかえしたという状況をみれば、やっぱ神頼みになる気分はわかりますね

249 名前:杉元:2007/08/06 15:38 ID:.4CkCJWuNI
■犬コまつり物語@ 旧小正月行事ピンチ

 戦後、旧正月は「新生活運動」という大寒気団に包み込まれました。
 昭和32年12月9日に旧正月の廃止など4項目を運動目標にする新生活
 運動協議会が発足しました。
 会長に伊藤市長、副会長に花立市議会議長、役員には湯沢の名士が連なり
 市を挙げた組織体と言えます。
 もっとも、正月については、湯沢地区では大部分が新正月に移行していたよう
 ですが、農家の比率が高い他の地区では、やはり旧正月だったようです。
 明治5年に改暦されてからも、庶民レベルでは旧暦が大事にされてきたようですね。
 何といっても、農暦ですからね。
 女正月と言われた旧小正月も当然御法度。
 「この運動は、今や議論の時ではなく日本国中で唯一つ東北の一隅に取り残された
  旧正月地帯を、その土地の人が払い去るか否かにかかっている。」
 すごーーい。次回は、犬コ市の復活ですよ。

250 名前:杉元:2007/08/07 20:39 ID:/ZPUWbvsAA
■犬コまつり物語A 犬コ市の復活

 昭和42年2月17日の秋田さきがけに次のような記事が。
 「夢の世界に誘う 湯沢市で犬ッコ祭り」
 戦後、新生活運動で旧正月を廃止したことから、犬ッコ祭りも一時
 すたれたが、30年に観光目的で復活、年々盛んになっている。

 この記事には、一時すたれ復活したのを犬ッコ祭りとしてありますが、正確
 には犬コ市でしょうね。

 それを裏付けるように、昭和31年3月15日の広報に「湯沢名物犬ッコ
 市、去る23日(旧正12日)早朝からにぎやかに開かれた。」とあります。

 ということは、新生活運動が華やかな時期に、すでに復活していたことに
 なります。政策で衰退し、政策で復活した行事なのでありました。
 しかし、統一した表記ってないのね。

251 名前:杉元:2007/08/07 20:50 ID:/ZPUWbvsAA
■犬コまつり物語B 犬コ祭りの誕生

 昭和40年に発行された「湯沢市史」に次のような記述があります。
 「戦後生活の合理化運動によって一時廃れたが、観光ブームに乗って
  昨年より復活し、犬コ祭りを行うようになった。」

 また、昭和40年2月15日の広報に犬コ祭りについて「この行事は
 市観光協会が昨年復活開催し……本市の数少ない冬の観光行事として
 また子ども達の情操教育の一端もかねて、今後ますます盛り上げて行
 きたいものです。」とあります。

 以上、市の公式記録により犬コ祭りは昭和39年に誕生(進化)した
 のでありました。

252 名前:杉元:2007/08/07 21:26 ID:/ZPUWbvsAA
■犬コまつり物語C 市役所主導

 前回、湯沢市観光協会が復活開催したとの広報記事を紹介しました。
 湯沢市では、長年にわたり観光協会事務局長のポストに市職員を派遣
 していましたので、これは湯沢市役所が復活開催したと読み替えても
 よいのです。

 しからば、当時の状況を振り返りましょう。
 旧湯沢市では、昭和32年に「新市建設十カ年計画」を策定して施策
 を進めてきました。
 つまり、合併町村時代からの継続事業や課題を解決するのに10年かかった
 と見るべきでしょう。
 合併後10年間の歴史をみると、学校、公民館等公共施設の整備、道路、河川改修
 そして、橋の架け替え、建設事業のオンパレードです。

 しかし、これらも一段落し、昭和43年に策定された「湯沢市振興計画」の
 観光分野に次のような方向が示されています。
 「七夕、大名行列、犬っこまつりなどの保存行事郷土芸能の開発促進に努め
  ます」とね。
  西栗駒一帯の自然観光と行事観光を両輪と位置づけていたんですね。

253 名前:杉元:2007/08/07 21:38 ID:/ZPUWbvsAA
■犬コまつり物語D 中央公園広場

 初期段階では、町内の空き地利用又は家並みお堂っこ状態だったでしょう。
 私も、子どものとき自宅前にお堂っこと呼ぶのが恥ずかしい規模のものを
 造った記憶があります。

 中央公園広場の言葉が初めて広報に出てきたのが、昭和45年2月15日で
「ことしも中央公園広場で」とあります。
 昭和43年以前の状況を勘案すると、中央公園広場デビューはズバリ
 昭和44年と推測します。

254 名前:杉元:2007/08/07 21:47 ID:/ZPUWbvsAA
■番外編

 このように、お堂の制作は市役所の政策であったのですから
 心やさしい市職員は、極度の学業不振が心配で心ならずも
 動員されたB少年にラーメンの一杯もごちそうしてあげれば
 よかったのです。(できればチャーシューメンを)

 そうすれば掲示板は平和になったのでありました。(大笑い) 

255 名前:わっぱが:2007/08/08 08:53 ID:xwgPdiDKeU
 うーん、詳細な解説ありがとうございました
 今にいたる元少年の転びの構造まで言及とは恐れ入ります
 感想はおいおい仕ります

256 名前:スナドリネコ:2007/08/08 13:14 ID:RD2IlKvLF6
情操教育の一端だったんですか。
しかし、中には教育効果がなかった元少年も居たと言うことですね。
環境が人を作ることもありますが、多くは本人の資質ですから。

257 名前:杉元:2007/08/09 19:26 ID:rnJTEBvKGM
■えっ、本人の脂質ですか?

 お盆休み明けに、絵どうろう物語を投稿させていただきます。
 まずは、「地口とうろう」からアプローチする予定です。
 それでは、休暇モードに突入しまーす。
 

258 名前:わっぱが:2007/08/10 02:01 ID:MHGTE8mCzQ
 はい、休暇、ごゆるりと。
 個人的には、京都奥様の周辺あたり興味のあるところです。
 最大の謎=なんで摂関家の正嫡の姫様が、地方一支筋のところに興し入れしたか、ですね。
 久保田の本家の殿様でも恐れ多いことなのに(しかも姫様のおば様は将軍家ですぜ)

 今の私の読みでは、姫様が醜女であったことが遠因かな?とか
 古い古い記録では、京都輿様は醜女であったが、心優しく聡明で皆から敬愛された、とか書いていた文献があったかと思います。
 絵どうろうの由来にかかる人物なので、いつのまにかその形容はなくなりましたが、謎の回答の1つの説にはなるかと。

 もう1つの案は、南家はよく久保田宗家の代わりに、江戸や京都に行かれてたことに縁があるのかな、と。
 たまたま京都を散策していた南家の若様が、身分を隠した鷹司の姫様と出会い、姫様が強く気に入って、親父様など全ての反対を押し切って、はるか辺境の湯沢に降嫁された。とかいうもの。
 浪漫的ではないですか。(これなら良い物語になるよね)
 時は元禄ですもの。華やかなロマンスがあってもいいかもしれないし。

259 名前:わっぱが:2007/08/10 02:13 ID:MHGTE8mCzQ
 絵どうろうまつり、という形がいつ確立したかも興味の点ですね。
 以前、湯沢図書館や行ってた、七夕の関連図書展示の際に見たのは、将棋のコマの形や立体化した武者絵など、まさに「ねぷた」「ねぶた」系のものも混じってました。
 また、絵どうろうも、今の子供絵どうろうくらいの大きさしかなく、地味さでは今よりずっと地味の様子でした。
 あと、おびきゅうさんだかの記載で、七夕の灯篭を行くのをみた、とかあった記憶もありますから、まじで、ねぶたみたいな感じでやってたのかもしれません。

 江戸期では、京都奥様とその侍女らが京都風の七夕の飾りつけ=竹に3色の帯をたれ下げたもの=をしたのを見て、屋敷内、さらには、下々の町衆まで真似をした、というあたりでしょうか。
 このころのお日記の記載をみると、若様も町に出て芝居や相撲を見物して楽しんだり、町衆もそのために席を設営したり、という、ある種のデタント的な空気が流れていたようです(ちなみに財政はこのときも既に相当大変。後年、早世する跡継ぎが多く、石高が1/3くらいに大幅削減になった)

 京都奥様のエピソードでも、相撲ご高覧の際に、高家格式を取ったため、相撲側があわてて格式の仕切り直しをした、という話が残っています。
 家来集・町衆は誇らしげだったと思いますし、こりゃ大事せんとあかんなあ、と皆が思ったに違いありません。
 姑さんと、小安に温泉旅行に行ったり(総勢150名の大所帯)、お子さんが生まれたり、と、ひょっとするとホームシックで泣き暮らしている期間は短かったのかもしれません。
 岩明 均さんあたりに、ぜひ、コミカライズして欲しいところです。

260 名前:杉元:2007/08/15 19:20 ID:JcsuvJOF96
■謎の京都奥様

 事務記録簿である佐竹南家日記から結婚の理由や背景を読み取るのは
私の力では至難の技ですね。
(株)佐竹の湯沢出張所長に、なぜお嬢さんが嫁いだのか。年収も低く
町人金融からの借り入れさえあるのに、なぜお嬢さんを嫁に望んだのか。
 嫁を迎えるための支度金ですか、更に借り入れしているようですね。
 どうも、義安様のおっかさん(未亡人)が、かなり主導している気がします。
 かわいい息子のため、おっかさんがどこに出しても恥ずかしくない嫁を望んだのかも
 しれませんね。
 (株)佐竹専務取締役(家老)の渋江内膳殿も深くかかわっていますね。
 南家と親戚だからね。

 いずれ霧の摩周湖状態。

261 名前:杉元:2007/08/16 07:17 ID:2WuZfawo4.
■絵どうろう物語@ じぐちとうろう

 湯沢市史に次のような記述があります。
「…その後七夕祭りも進化して、明治年間にはそれに地口燈籠を加えて賑やかにし…」
 また、「目で見る横手・湯沢・平鹿・雄勝」にも、
「…かつては各家庭で青竹に短冊や吹流しをつけて門前に飾ったが、明治以後は地口
 灯篭をも下げられるようになり…」とあります。
(注)とうろうの漢字表記は出典原文による

 私は、この「じぐちとうろう」らしきものを子どもの頃みています。
 それは、大町のカクトトミヤさんが毎年出すものでした。
 地口とは、言葉遊びと理解されますが、絵が無くて何やらユーモア、ウイットそして
 エロチシズムにあふれた文章が書かれているのでありました。
 (子ども心に大人の世界が感じられました。)
 今は、残念ながら絶滅しましたね。
 瀬戸トミヤのご主人(故人)は、一風変わった人でしたね。店のトラックに赤いハートを描いて
 その中に「利一郎+敦子」とありました。敦子さんは奥さんでしょう。なんか目立ちました。    

262 名前:わっぱが:2007/08/18 02:25 ID:qHWZuN8AmA
http://www.kosho.or.jp/list/302/05912384.html
 地口燈篭ではgoogleでhitなかったですが、地口行灯(あんどん)では結構、研究成果があるそうです。
 文頭は、足立区立郷土博物館のものだそうです。

 主に秋祭りの神社の参道などに飾られていたもののようですが、とにかくお祭りの流れで飾られるようなものだったようです。
 西馬音内の盆踊りの歌詞も、まあ、地口っぽいものですね。

 セトモノの富谷さんにはよく行きました。昔はお使い物に食器というのはよくありました。
 今は100円均一で何でも食器が買える、というのは信じられない時代ですね。
 自分のお気に入りの飯茶碗を買うために、数日日参したとかありました。
 赤いハートのトラック、というのもいいですね。

 昔、昭和初期とか明治時代の七夕をみると、遥か頭の上に、タテ2m×ヨコ1mのような燈篭をつるしている感じでした。
 昔ですから、明かりはたぶんロウソクなんだったと思います。

263 名前:わっぱが:2007/08/18 03:41 ID:qHWZuN8AmA
 御日記以外の情報ソースが出てくるといいですね。
 豪農や肝煎の日記とかが見つかるといいんですが。

 湯沢の場合、七夕の短冊をつけるコヨリに、古文献が使われた、ということで、他より古文献の残り方が悪いという考察もありました。
 七夕の普及が、七夕の由来をマスクしたというオハナシ。

 湯沢が期待できないとすれば、家老家の渋江家や京都の鷹司家の記録が命かなあ。
 初代・渋江内膳のお墓は京都にあるとか。

264 名前:杉元:2007/08/19 03:00 ID:T9.0/WlhSU
■「思い出のアルバム湯沢」

 昔の写真を探しましたが、この本で一番多いのかなー。少ないですね。
 明治末期のものが1枚だけ掲載されていますが、本当に素朴ですね。
 今からすると、短冊や飾り物が少ないだけ、青竹の清々しさが新鮮な感じがします。
 最初は、もっと素朴なものだったと思いますが、宮中女官の雅が偲ばれます。
 大正期になると、ずいぶん華美になった印象ですが、絵どうろうのサイズとしては
 今の児童作品よりやや大きめくらいでしょうか。
 とにかく、「絵心のある素人さんが頑張りました」という風体で、絵柄が素朴ですね。
 昭和30年代以降は、美人浮世絵が主役になりました。
 
 スーパージャンボサイズは、湯沢サンエー提供作品が印象的で、ビックリしたものです。
 昔は、審査と関係なく、どの家庭でも青竹を買って出していたものですが、
 めっきり少なくなりました。
 今では、祝日に国旗を掲揚している家庭の数と同規模くらいでしょう。
 やはり、家に子どもがいないとねー。老夫婦ではテンション上がらないでしょう。

265 名前:杉元:2007/08/19 03:27 ID:T9.0/WlhSU
■武家のサラブレット「サタケオー」

 経済力はともかく、由緒正しいことでは、江戸期の大名にあってピカ一だと思います。
 南家は、陪臣であっても、名門佐竹の一族ですから。
 まさか、どこのサラブレットの骨ともしれない奴に、摂関家としてもね。

 なんかの資料で、「虚弱化した武家(大名)」というのがありましたね。
 代々、狭い範囲で婚姻しているので、虚弱化して繁殖力も低下したという説です。
 そういえば、世継ぎもいないのに早世したとか。
 わずかな人口の範囲で、婚姻を繰り返しているから当然かもしれません。
 系図見ても、直球でつながることはありませんから。
 まれに、繁殖力旺盛な種馬将軍とかいましたね。
 不自由な大名生活にあっても、本人が望めば、本人が望まなくても側室だけはOK
 だったようです。

266 名前:わっぱが:2007/08/20 06:19 ID:OIUjz.AYSY
 まあ、昔の七夕の写真は、下記にもありますね
http://www.kurikomanosato.jp/yuzawatanabata-2.htm

 絵柄は今よりもラフな感じです
 絵灯篭が巨大化したのは、中央デパート、それに、ショッピングデパート大丈の登場かな、と思います
 昭和40年代は、竹飾りも豪華になって、仙台のようなぼんぼりも多くなりました

 道幅が狭いほど、かつての七夕の風情がしのばれますね
 その点では、東京神田の神田湯沢絵どうろうまつりの方が、
かつての風情をしのばせるものがあります
 湯沢在住の方もぜひとも御一見を (来年は開催年.7月7日あたり)

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